末の事(まつのこと) 徳水山 真壽寺 ブログ

砺波市出町にある真宗大谷派の寺院です。1649年開基と伝わる念仏道場としてのお寺です。徳水山真壽寺と申します。ですが、あだ名として、まつじ として呼ばれる事が多く、もしかしたら まつじ の方が通りが良かったりします。

一心一向に

数字と仏教という事で、一の巻、続きです。

 

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蓮如上人が遺してくださった御文という文章があります。

その中で、最も拝読されているものは、五帖目一通の、『マツダイムチノ』だと思います。

 

この御文を拝読させて頂く時、思い出す事があります。先祖の命日に、父と兄と私と三人で、本堂の法名前で、正信偈をお勤めしました。私は、十歳くらいだったか?そこは定かでは無いですが、いつもお勤めの後、御文を一緒に拝読しました。長いお勤めで、痺れた足を抱えていたところ、父が、この御文は、そらで読めるように覚えなさいと言いました。もしかしたら、兄は既に暗記していたのかもしれませんが、私と二人で、暗記するまで、何度も口ずさみました。口ずさんでくれました。お陰様で、今でもそらで語る事が出来ます。

 

 

末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(真宗聖典 P832)

 

その中に、『一心一向』という言葉がございます。

さらに細かく『一心』とは?

 

親鸞聖人によれば、ふた心なく、一のことにのみ向ける心を言います。教行信証信の巻では『一心は即ちこれ真實信心なり』

高僧和讃では『信心すなわち一心なり』とあります。

つまり、一心は信心を指しています。

 

では、『一向』とは?

善道の散善ぎには『一向専稱弥陀仏名』とあり、他宗派から一向宗と言われたわけである。

また大経には『一向専念無量壽仏』とあり弥陀の本願にそうて生きる真宗のこと、ただ一つのことに専念することを大切にしているわけである。

 

つまり、ふた心なく弥陀に帰依していくという姿をすすめられているわけである。