末の事(まつのこと) 徳水山 真壽寺 ブログ

砺波市出町にある真宗大谷派の寺院です。1649年開基と伝わる念仏道場としてのお寺です。徳水山真壽寺と申します。ですが、あだ名として、まつじ として呼ばれる事が多く、もしかしたら まつじ の方が通りが良かったりします。

僧と書くと、やはり僧侶の事を思い浮かびます。僧侶、坊主ですね。

ですが、僧とは、もともと僧伽(サンガ)の事を指していました。僧伽とは、出家者の集団の事です。戒律を守り出家修行をする比丘(男性の修行者)、比丘尼(女性の修行者)のグループが四人以上集まると、僧伽となりました。それは、インドの初期仏教の話。

時代と場所が移り、中国では、出家者自体を僧侶、あるいは僧と、呼ぶようになりました。そして、日本では、僧伽(サンガ)という意味が薄れて、出家者と言う意味へと転じていきました。


現在、日本で、僧と言えば、僧侶、お坊さん、坊主の事を指します。そこで、おかしな事がおきます。

インドで起こった仏教、歴史と時代と場所が移り、意味する事が、ずれてきてしまうわけです。文章の中にある単語の意味が変化したわけですから、文章によっては、全体の意味が異なってしまいます。

 

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

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上は三帰依文と言って、日本語の物です。本来は下のパーリ語版となります。サンガンサラナンガッチャーミー 自ら僧にきえしたてまつる。この場合の僧は、サンガですから、当然、僧伽(サンガ)という意味です。僧という個人ではなく、仏道に帰依するグループに帰依する、大切にするという意味ですね。
 
お坊さんの中には、我こそは僧であり、みんなに帰依してくださいませと思っている方がいるかもしれませんが、そう思っている方は、すでに僧ではなく、僧伽(サンガ)の一員でもないという気がしますが、言い過ぎですか?
 
壽照